エッセイ

2005/05/05(木) 私の営業論

2005/05/04(水) 私のインターフェース論

2005/05/03(火) 私のプラス思考理論

2005/04/20(水) 私のIT技術論


2005/05/05(木) 私の営業論

 私は2004年8月に横浜から川崎に転居した。その際に複数の引越し業者から見積もりを取り、最も安い業者に依頼しようと考えた。一番最初に依頼した業者がA社であった。一通りの荷物を見て見積り金額を算出した後、A社の担当者Bさんはテーブルの椅子にどっしり腰を下ろすと、A社がいかに優れた引越し業者であるかを説明し始めた。A社の社員は、きちんとした研修を受けた引越しのプロばかりである。それに比べて他社はずぶの素人を日雇いで雇っている。トラブルも多い。そのようなことを実際の資料を交えながら熱弁した。
「貴方の会社が非常に優秀なのは良く分かりました。しかし一応、他社の見積りを取った上でご回答したいと思います。」
と、私が言うと、
「いや、今お見せしたように、他社はいい加減なことばかりしています。見積りを取る必要性はありません。今直ぐ決断して下さい。」
と答える。それから延々と1時間半位押し問答があったが、結局私は後日回答という主張を曲げず、その日は引き取ってもらった。
 こんなふうにしつこくセールスを繰り返されたり、半ば強制的に商品購入を迫られたりして、非常に不快な思いをしたことが誰しも一度はあるだろう。確かに、気の弱い人や優柔不断な人を相手にする場合、強力な圧力を加えることでセールスに成功することは多い。営業の人だって厳しいノルマが課せられているし、生活がかかっている。しかしだからといって他社製品を必要以上に中傷したり、ユーザーにあたかも他の選択肢が無いように思わせるのは明らかに間違っている。短期的に実績を挙げることができたとしても、長期的には信用を失墜させてしまうだろう。
 私は、営業を行う上で重要なの次のような事だと考えている。
 第一は相手を思いやる仁の心だ。商品を売ることにより、相手の力になりたい、助けになりたい、喜んでもらいたいと心の底から思うことだ。そのような真摯な態度で接し続ければ、真心は自然に相手に伝わって行く。「私は口下手だから営業に向かない。」という人もいるが、決してそうではない。
「巧言令色鮮仁」(言葉が巧みでお世辞の上手な人には人間としての最高の道徳であるところの仁を求めることは出来ない)
「剛毅木訥近仁」(強いことを隠し、無口で不器用な人間こそ仁に近い)
これらは孔子の言葉である。いくら口が達者でも、うわべだけの人間は、表面に安い金メッキを塗っているようなもので、直ぐに剥がれ落ち、正体が暴かれてしまうだろう。
 第二は商品に自信を持つことだ。いつも自分自身が愛用する位でなければならない。ろくに商品の内容を確認せずに売り歩く人もいるが、言語道断だ。自らが使用して気に入らなければ、他人様が気に入る訳がない。ある健康器械メーカーが近所のスーパーの一角で、自社の新製品を無料開放していたことがあった。それは椅子に座るだけで、血流が良くなり、頭痛、肩こり、腰痛、便秘が治るというもので、一度会員になれば何時でも自由に利用できた。私は肩こりがひどいものだから、会員になって見た。担当者Kさんは非常に気さくな人で、私が時間の空いている土日にのみ行くものだから「週末の男」というニックネームを付けてくれた。Kさんはスーパーに買い物に来るお客さんにいつもこう呼びかけていた。
「これは座っているだけで健康になれる素晴らしい器械です。厚生労働省の認可も受けています、」
その姿ははつらつとし、自信にみなぎっていた。会員は単に座っているだけなので、結構手持無沙汰だ。その会員に対してKさんは、器械の仕組みや効用、毎日通い続けて著しい体質改善が見られた実例を誇らしげに語った。最初杖なしで歩けなかった人が、普通に歩けるようになったとか、視力が良くなって眼鏡が不要になったとか、血圧、血糖値、コレステロール値がすっかり改善し、主治医がびっくりしていた、等々。自社が提供する医療器械を利用して、傍目にも分かる程健康回復をしていく姿を見ることが、Kさんに取って無上の喜びだったに違いない。その人の体質によって効果がすぐ出る人と、ある程度時間がかかる人がいるものの、その器械を利用し続ければ必ず効果が見られる。Kさんは絶対の自信を持っていた。その器械は数十万もする高価なものだったので私は買わなかったが、実際購入した人が相当数いたようだった。自信にみなぎっている人は非常に頼もしく見える。一方、どこかおどおどして不安そうな人を見るとこちらまで不安になってしまうものだ。
 第三は引き際だ。この人に是非使って欲しいと心底思ったとしても、最終判断はその人が行う。使用を強制することはできない。私は勧誘するのは3回が限度だと思う。つまり勧誘して断られ、それでも諦めず勧誘して断られ、それでもなお諦めず勧誘して断られた場合は、きっぱり諦めるべきだ。それ以上勧誘するのは失礼に当たる。場合によっては、相手を怒らせ、おたくの商品は二度と買わないとも言われかねない。その引き際をわきまえていない営業が意外に多いようだ。
 以上は、営業する側について記述したが、営業される側にも最低限のマナーはある。自分の興味のないセールスが来た場合は、まるでうるさいハエを追い払うような態度を取る人がいるが、それは相手に失礼だ。もし自分がそのような扱いを受けたらどんな気持ちになるかを考えるべきだ。私は学生時代に新聞配達をしていたのだが、玄関や門の所に「セールスお断り」とシールが貼ってある家があった。最初から面倒に関わりたく気持ちも分かるが、なんとなく堅苦しい、近寄りがたい印象を持ったものだ。他方、木板に手彫りで「ようこそ」と彫って飾ってある家もあった。これは見るだけでもほのぼのとして、癒された気持ちになった。人は社会生活を営んで行く上で、営業する側にもされる側にもなる。その際にもっとも重要な基盤になるのは相手を思いやる仁の心であり、それが人と人とのトラブルを事前に防ぐ潤滑油になるのではないだろうか。


2005/05/04(水) 私のインターフェース論

 新しいソフトウェアを使用する時、使い方が全く検討つかず、パニックになることがある。シェアウェアの場合、使い始めて最初の5分が勝負だ。少しいじって使い方が全く分からない場合は、さっさと使うのを辞めてしまう。10年以上プログラマーの経験を積んできた私でもそうなのだから、そのような経験がある人は多いに違いない。ある程度の予備知識・業務知識が必要なソフトの場合、使いこなすにはそれなりのノウハウや時間を要するのは理解できる。しかし、一般ユーザーが単純な事務処理やアミューズメント、ネットブラウジングを行う場合はそれは通用しない。その際ソフトに要求されるのは、必要な機能を必要な時にスピーディに利用できるということだ。
 パソコンで事務処理を行うにあたり、現在最も良く使用されているのはマイクロソフトのオフィスであろう。中でもワープロソフトの「ワード」と表計算ソフトの「エクセル」は定番だ。一昔前は、ワープロソフトは「一太郎」、表計算ソフトは「ロータス1-2-3」が主流だった。マイクロソフトのオフィスがトップシェアを奪ったのは、必ずしもインターフェースやコストパフォーマンスが優れていたからではない。メーカー製のパソコンは大抵の場合オフィスがプリインストールされているし、周囲の人の大部分もオフィスを使用している。特に迷うこと無く、必然的にオフィスを使用している人も多いのではないだろうか。マイクロソフトが力ずくでデファクト・スタンダードにしたという観が否めない。
 私の個人的意見としては、オフィスはバージョンアップするに従い、より重く、より使いづらくなっているという印象を持っている。特に「ワード」は、頼みもしない事を勝手にして、やりたいことが中々できない感じがする。逆利きの手で文字を書くが如く、もどかしくていらいらすることがある。勿論これは、私の勉強不足が原因だ。きちんとマニュアルを読んで使用方法を勉強すれば、こんなことで悩んでいたのか、と思う類の事だ。しかし、文書を作成する場合は大抵急いでおり、急場しのぎで見栄えが何とかなれば良しと片付けてしまう。仮に使い方を調べたとしても、1ヶ月もすれば忘れてしまう。こんなことを繰り返しているから、使い勝手が一向に向上しないのだ。
 私は、ソフトのインターフェースで重要なの次のような事だと考えている。
 第一は単純なことだ。ソフトはバージョンアップごとに機能が追加され、インターフェースも煩雑になりがちだ。しかし、どんなに便利な機能であっても使い方が難しければ、最初は面白がって使うかもしれないが、次第に敬遠されてしまうだろう。良く使う機能程分かりやすい位置に置き、2、3回のボタン操作、またはキー操作を行うだけで後は自動で全てやってくれるのが望ましい。例えばはがき印刷ソフトであれば、主な使用用途は年賀はがき印刷であると思う。極端な話、それだけのために使用している人もが多いのではないだろうか。今時のはがき印刷ソフトは非常に多機能化し、ソフトを立ち上げるとマルチウィンドウで色々な画面が表示される。これはある意味結構な話だが、立ち上げた直後何をどうして良いか分からない。1年前に操作した記憶はあるが、細かい事は忘却の彼方である。ユーザーが迷うことなく使用できるように、ウィザード形式ではがきを印刷出来る機能も装備しているが、もっと簡単にできないのかと歯痒く感じてしまう。年賀はがきを印刷するは、まず住所録から対象者をリストアップし、必要に応じて住所情報を訂正し、一挙に宛先印刷を行うという手順になる。よって、ユーザー絞り込みと宛先印刷機能がメイン画面の良く分かる位置に置かれ、2、3回の操作で機能が実現可能であるべきだ。
 第二は直感的なことだ。画面を見た瞬間にここをこう操作すればこうなる、と予想できるのが望ましい。はがき印刷ソフトであれば、ユーザーが操作することは決まっている。ソフトを立ち上げた瞬間に違和感なく操作でき、マニュアル無しでもほとんどの機能が使いこなせるようなインターフェースを持って然るべきだ。
 第三は操作性が優れていることだ。例えばコンボボックスから該当データを選択させるインターフェースで、マスタに過不足がある場合に一旦マスタ編集メニューを開いて登録し、また元の画面に戻るとなると不便だ。コンボボックスの隣に編集ボタンがあり、それを押下すればマスタ編集が可能で、編集後その内容が即座にコンボに反映されれば操作性は格段に向上する。また、一連の操作手順に従って機能が左から右、上から下に配置されていれば自然な感覚で操作ができる。入力項目が多い画面の場合は、Enterキーでカーソルを次項目に移し、そのタイミングで入力されている内容が全選択されると使い易い。物の本のよれば、Windowsのプログラム開発で最もしてはいけない事は、Enterキーでカーソルを次項目に移すことだそうだ。Windowsの標準インターフェースでは、Enterキーを押下するというのはデフォルトのボタンを押下するということであり、不用意にカーソル操作するのは不具合の元だと言うのだ。それはそれで正論なのだが、頑なに堅守する必要はないと考える。大部分の機能をマウスとキーボードの双方で操作できることも重要だ。一般的に初期ユーザーはマウスを多用し、熟練ユーザーはキーボードを多用する傾向が強い。そのどちらにも対応できるようにしておかなければならない。
 第四はデザインだ。最終的に最も重要になる部分である。ある程度エンターテイメント性を持つソフトであれば、一見して使ってみたいという誘惑に駆られるようなデザインでなければ、わざわざお金を払ってまで使おうという気にはならないだろう。この点は料理の盛り付けと相通じる点がある。どんなにおいしい料理でも盛り付け方が下手であれば台無しになってしまう。一口にデザインと言っても、人の好みは千差万別なだけにどのようなデザインが望ましいかは非常に難しい。ある人が見ると優れたデザインであっても、別な人が見ると全く駄目ということは良くある話である。ただ、例えば俳優の木村拓哉が多くの女性から愛されるように、一般的に好まれる傾向というのはある。そのような人の好みの最大公約数を模索するか、或いは時間的余裕があるなら、幾つかのパターンを予め準備しておき、ユーザーの好みに応じて使い分けてもらうというのも一つの手だろう。
 今後、ソフトの進化について間違いなく言えるのは、益々多機能化、高性能化が進むということだ。しかし、それはインターフェースの進化には結びつかないし、むしろ相反する部分がある。OSについて言うなら、Windows3.1からWindows95に変わった時、インターフェースは激変した。最初はかなり違和感があったが直ぐに馴染み、実はかなり使い勝手が改善されていることに気付いた。その後、WindowsXPになるとかなり厚化粧になってしまった。私個人はXPインターフェースは好みでなく、クラシックスタイルで使用している。現在マイクロソフトは3Dインターフェースを開発している。しかし、私は2Dインタフェースにそれ程不便を感じていないので、そもそも3Dインターフェースなるものが必要なのかどうかは分からない。無用の長物になる可能性もある。インターフェースに限定して言うなら、その進化の過程は決して右肩上がりのではなく、試行錯誤の連続だ。資本主義社会の競争原理に従うなら、複数の候補の中から、最も優れたものが自然淘汰されて行くだろう。しかし残念なことに、ソフト業界はマイクロソフトによる寡占状態が続いており、その原理が必ずしも適用されない。その寡占状態を打破するような斬新なインターフェースを持ったソフトの誕生が待たれる所だ。


2005/05/03(火) 私のプラス思考理論

 巨人の桑田投手と言えば、PL時代に清原とKKコンビを組んで一世を風靡し、その後巨人に入団してエース番号を背負い、不断の努力により勝ち星を積み重ねて来た大投手だ。一時期は負傷により戦線離脱を余儀なくされたが、不屈の闘志で不死鳥の如く蘇った。彼はかつてこんなことを語ったことがある。
「プラスという字を書いてみてくれ。最初にマイナスの文字を書く。そしてマイナスを縦に貫いて初めてプラスという文字になる。一見マイナスのように見えることでもそれはプラスに転じる上での一つのプロセスに過ぎないのだ。」
この話を聞いて、私は深く感銘した。単に口先だけでなく、自らの行動を以って範を示して来た桑田だけに、言葉に重みと深みを感じる。
 「人生は苦である」とはお釈迦様の言葉だ。誰もが多かれ少なかれ苦しみや、不安、悩み、ストレスを抱えて生きている。順風満帆そのものに見える人でも、時には自分の両肩に重くのしかかるプレッシャーを全てかなぐり捨て、何処か逃げ出したくなる瞬間があるに違いない。
 私は30歳の時から3年間程度、ある派遣業者Mさんから派遣先を探してもらい、出向SEとして勤務していた時期があった。Mさんは私より3歳年上で、私のことを勤務態度が真面目だと非常に高く評価してくれた。また、残業が続く時には健康だけには注意するように気にかけてくれた。出向料金はMさんが規定のマージンを差し引いた後に私に支払う約束になっていた。ところが、ある時期以降支払いが滞ってしまった。電話で確認したところ、それに関して会って説明したいという申し入れがあった。実際に会って話を聞いた所、契約していた会社が倒産し、そのあおりで数百万の負債を抱えてしまったということだった。支払いを踏み倒すことは絶対しないから、未納分は十万円ずつ分割払いに欲しいと依頼され、それを了承した。翌月から分割払いで振り込まれるようになったが、それも3ヶ月しか続かなかった。また電話で確認すると、今度は国税局の査察が入り、通帳等を全て没収されてしまったという。それから1ヶ月程経過すると、電話が一切通じなくなってしまった。はがきを出して見た所、住所不定で戻って来ることは無かったので、仮に転居していたとしても郵便局に転居届を出していることは分かった。内容証明の郵便を出して見た所、文京区の消印で配達証明が送られて来た。元々渋谷区に住んでいた人だったので、文京区に引越したことが分かった。私は困った。裏切られたかもしれない、と思った。しかしそれを認めたくなかったし、Mさんを未だ信じたい気持ちもあった。感情的になっても仕方がないので、今現在自分ができることをやろうと考えた。色々思案した結果、裁判所に支払督促の訴状を提出することにした。支払督促というのは、一口に言うと借金の取り立てを裁判所が代行してくれるようなものだ。裁判所に相談に行ったところ、被告人の住所が明確でない場合、支払督促は成立しないと注意された。駄目で元々と考え、Mさんの住所を引っ越す前の渋谷区の住所にして、訴状を提出した。しばらくして、裁判所からMさんに訴状を確かに郵送したことを通知するはがきが届いた。そのはがきに赤のボールペンで「Mさんは文京区××でM’さんと同居しています。確認して下さい。」と書かれてあった。MさんとM’さんは同じ苗字だったので、Mさんが家賃が払えなくなって親族の所に転がり込んだらしいことが分かった。そこで区役所に行って事情を話して住民票を取り、次に裁判所に行って訴状の修正を行った。私は労せずしてMさんの新住所を知るに至った。支払督促は、訴状が被告人し郵送されてから2週間以内に異議申し立てがあれば、裁判に発展する。異議申し立てが無ければ、支払督促は成立し、財産の差し押さえが法的に可能になる。2週間経過しても、Mさんから異議の申し立ては無く、支払督促は成立した。私はMさんに次のような手紙を書いた。
「Mさんが現状に至るには大変なご苦労があったと思います。財産を差し押さえるつもりはありません。まず会って事情を話してくれませんか?」
3,4日経って、代理の弁護士を名乗る男から電話がかかって来た。
「本人は会いたくないと言っています。また、代理人を立てた場合は直接会うことはできません。Mはこれから自己破産の申請を出します。自己破産してしまえばほとんど何も取ることができませんが、あなたには未だ財産を差し押さえる権利があります。どうしますか?」
私は
「そんな性質の悪い借金取りのようなことはできません。」
と答えた。その後、Mさんは自己破産し、今現在どうしているかは全く分からない。
 Mさんは決していい加減な人ではなく、きちんとした一般常識を持つ真面目な人だった。しかし、そんな人でも逆境に立たされた時、背を向けて逃げ出してしまった。私は自分自身を省みた。もし私がMさんと同じようなトラブルに巻き込まれたらどう対応しただろうか、と。私だって逆境に立たされ、一旦背を向けて逃げ出したなら、どこまでも逃げ通そうとするに違いない。一度軌道から外れれば、余程タイミングが合うか、周りに良きサポーターがいない限り軌道を元に戻すのは極めて難しい。最も大事なのは決して逃げ出さない事だ。どんなに辛く、苦しくても逆境と真正面に向き合わなければならない。溢るる涙を止めることはできなくとも、顔を覆い隠すことを辞めることはできるだろう。涙を流しながらもまっすぐ前を向いてなければならない。そして不屈の闘志で逆境を乗り越えてこそ、初めてマイナスがプラスに転じるのだ。この姿勢を持っているなら、人生にマイナスはない。一見マイナスに見えることはある。しかしそれはプラスに転じる上での一つのプロセスに過ぎないのだ。


2005/04/20(水) 私のIT技術論

 先日あるテレビ番組で、IT関連の若手社長H氏が近未来の青写真をこう語っていた。
「将来はほとんどの事がインターネットで対応可能になり、街にはお店も何もなくなり、人だけが残る。」
H氏の予想では、学校の授業や買い物、本の立ち読みすら全てインターネットで行われるというのだ。私はこの話を聞いて、夏目漱石の次のようなエピソードを思い出した。
 夏目漱石が英語の教師をやっていた頃、ある生徒にpossibleとprobableの意味の違いを質問された。なるほど、どちらの単語も辞書を引くと「あり得る、ありそうな、多分」等の似たよううな意味が並んでいる。この質問に対し、漱石は
「教師たる余が今、教壇で逆立ちをするのはpossibleであるが、probableでない」
と答えたという。
 H氏の予想は、正にpossibleではあるが、probableではないということができるだろう。確かにIT技術による合理化を究極まで進めるならば、ほとんどの事をインターネットで済ますことは理論的に可能である。例えば子供達は在宅にてインターネットを通して授業を受けたり、インタラクティブなコミュニケーションを取ることは現時点でも可能だし、部分的に導入している学校もあるかもしれない。では将来学校という施設が消滅してしまうか、と言うとそうはならないだろうし、そうなってはならない。子供達が学校で学ぶのは何も学問だけではない。クラスという枠組みの中で、ひとつのコミュニティを形成し、その中でお互いに協力・協調して一つのことに取り組む姿勢、目上の人に対する礼儀、お互いに助け合う心を学ぶのである。そしてこれは時間と場所を共有するからこそ可能なのだ。また、決まられた場所に決められた時間までに行く、ということを反復することが生活を規律化させ、自制心を養うという効用もあるように思う。手間隙をかけて一堂に会することにこそ意義があるのである。
 IT技術は我々の日常生活にすっかり土着し、必要不可欠なものになった。今後、益々発展の一途を辿っていくことだろう。但し、忘れてはならないのは、人間がIT技術を支配するのであって、IT技術により人間が支配されてはならない、ということだ。どうも最新気になる風潮を見かけるようになった。喫茶店で若い人達が向かい合って一言も会話せず、メールをやり取りしているのだ。一つ屋根の下にいる家族同士が会話の替わりにメールをやり取りすることもあるらしい。勿論、これは一部に見られる兆候に過ぎない。しかしもしこのような兆候が進んだ場合、極論で言うなら、H氏の予想のように基本的に外出せず、買い物は全てインターネット、人とのコミュニケーションも全てメールやインターネットを通して、という社会が到来することになるかもしれない。その状況はIT技術により人間が支配されていると言っても過言ではない。当然そうはならないだろうが、その可能性(possibility)は否定できない。
 人間は社会的動物であり、一人では生きて行けない。太古の昔から人間は集落を作り、共同生活を営んできた。「仁」という漢字は人が二人と書く。これは人がお互いを真心を持って思いやる心である。「信」という漢字は人の言葉と書く。これは人が嘘偽りのの言葉を語り、お互いを信じ合う心である。これらの漢字は今から三千年以上前、中国が殷と呼ばれていた時代に創られた文字らしい。それ程前から、否、人類の誕生以来、「仁」と「信」の精神は共同生活を送る上での最も重要な基盤であったし、人類が世界に存在し続ける限り恒久普遍の原理原則である。そしてIT技術とは、人と人とコミュニケーションをより迅速に、より円滑に、より愉快にするための一つの手段に過ぎない。極めて利便性の高い、有効なものであるが、ひとつ使い方を間違えれば人間関係をより疎遠に、より希薄に、よりドライにする危険性も併せ持つ両刀の刃である。IT技術を否定するつもりは毛頭ないが、そのことを十分肝に銘じておく必要があると思う。